青年僧のお話に寄稿

浄土宗奈良教区青年会ホームページの「青年僧のお話」に新住職・桂 浄薫が法話を寄稿しました。

下記にも引用しますのでぜひご一読ください。感想はお寺にお参りの際に(笑)

青年僧のお話 | 浄土宗奈良教区青年会
http://narajosei.info/sermon

晋山式を終えて – お寺を預かるとは

11月1日、快晴の下で私のお寺、善福寺の晋山式(住職の代替わり式)を挙行しました。来賓さま、奈良県内外のご寺院さま、多くの檀信徒さまに見守られるなか、無事に成満して善福寺第三十三世の住職に就くことができました。これもひとえにご縁の皆さまのお陰であり、感謝申し上げるとともに、皆さまのご期待に応えられるよう精進していく所存です。

晋山式は午前中だけの行事なので当日は意外と早く終わるのですが、その割には準備はなかなか大変。本堂・庫裏の設営や記念品・お弁当の用意、案内状の送付や出欠の確認、受付係などお手伝いいただく方々への説明など多方面にわたる準備に奔走しました。お世話になった沢山の人たちに思いを馳せながら準備するのは楽しい時間でしたが、この変化の激しい時代に住職になることにはどんな意味があるのか、宗教離れが叫ばれるなかで晋山式をどのようなカタチで勤めるのがふさわしいのか、悩みながらの準備でもありました。

晋山式は新しい住職のお披露目の式ですから、第一義はそのお寺の檀信徒や地域の方に見ていただき、ご挨拶申し上げること。そして同時に、近所や関係のお寺さまにご挨拶して、今後ともよろしくお願いしますとお願いする場でもあります。しかしながらお寺の論理として、晋山式に限らずさまざまな法要において、いつのまにか後者が優先される場面が少なくありません。決してそんなつもりはなくても檀信徒への意識が二の次となり、他のお寺さまへの体裁を重視するあまり、肝心の檀信徒の思いと微妙にズレた形式ばった法要・儀式になってはいないでしょうか。

今回私の晋山式で特に斬新なことをしたわけではありませんし、やみくもに新しいことをすべきだというわけでもありません。伝統と儀式の意義も大切です。ただもう少し柔軟に、変えていいところも沢山あるように感じました。

お寺の住職を務めることを「お寺を預かる」と表現することがあります。誰が誰から「預かる」かと言えば、大原則として「住職が檀信徒から負託を受けてお寺を預かり護持すること」といえるでしょう。決して国や銀行から預かるのではなく、ましてや浄土宗や他のお寺さまから預かるのではなく、お寺をずっと見守ってくださっている檀信徒さまからお預かりする、そのことを忘れてはなりません。預かったからにはより良いものにして、その素晴らしさを皆さまに還元していくのが、託された者としての矜持でしょう。

今まではお寺どおしが仲良くしてさえいれば、お寺にとっても檀信徒にとっても上手くいく時代でした。しかしこれからは、いや今もう既に宗教・仏教・僧侶離れが進み(なかでも僧侶離れが深刻)、お寺さま相手に腐心している内にどんどん檀信徒の心はお寺から離れてしまいます。他のお寺さまとケンカする必要はもちろんありませんが、お寺さまに対しておもねる必要も、見栄をはる必要もなく、ただ檀信徒と向き合っていくべきではないでしょうか。

こんな若輩の私ですが、晋山式当日の檀信徒さまの顔には笑顔があふれ、新しい住職に温かいお気持ちを寄せてくださっているのを強く感じました。その思いをムダにすることなく、どこまでも愚直に檀信徒さまに向き合い、お念仏信仰をともに進めていこうと決意しています。「信仰は進行なり」。私もまだ歩み始めたばかりの凡夫です。 南無阿弥陀仏

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