境内・寺宝

善福寺の境内の仏像や石碑を案内します。時間に余裕のある時は、普段見たことのない本堂の裏側や墓地の隅々を探検してみてください。

宝物場所
本尊 阿弥陀如来座像本堂正面
釈迦如来絵図本尊さまの背面
善導大師立像・法然上人立像本尊さまの左右
釈迦涅槃図2月24日の御忌会で特別公開
行基菩薩開山の石碑本堂の手前
山門境内入口
鐘楼山門の東隣
十三仏の石碑墓地の西端
冷泉為恭の墓墓地の東側の無縁墓
六地蔵の石碑山門の西隣と本堂の手前

 

本尊 阿弥陀如来座像(室町時代作)

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昭和57年6月10日の本堂火災により、当時のご本尊の阿弥陀如来座像(平安時代作・二尺六寸=77cm)は消失してしまいました。

その後、本堂復興の際に誠に稀有なご縁により、現在の阿弥陀如来座像をお迎えすることができました。

元々は奈良市内の寺院で崇拝されていましたが、戦後の混乱期に流出し、広島県尾道市の生口島にある耕三寺(浄土真宗・西本願寺派)に奉安されていました。その後、有り難いご縁に導かれ、当山にお迎えすることとなりました。

旧大塚邸(杣之内町)の倉庫で修復作業を施し、昭和60年4月の落慶法要に合わせて当山本堂に鎮座していただきました。修復は奈良市の仏師・宝田信彦(たからだ・のぶひこ)師にお世話になりました。

「丈六(じょうろく)の阿弥陀さま」(座っておられますが、立ち上がれば一丈六尺=約4.8mの大仏さま)として今も篤い信仰を集めています。室町時代の作と伝わり、平安時代よりもより一層信仰の対象としてお顔が大きいお姿となっています。

【お参り方法】お顔を拝しながら合掌して「助け給え阿弥陀さま」のお気持ちで「南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏してください。


釈迦如来絵図

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本尊・阿弥陀如来の裏側にあります。奈良市の仏画師・能美湧泉(のうみ・ゆうせん)師の筆によるものです。


善導大師立像・法然上人立像

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本尊さまに向かって右側におられます。向かって右側(本尊さまから見て左側)が上座ですので、法然上人の師匠である善導大師(中国・唐)をお祀りしています。大阪府門真市の仏師・安孫子誠(あびこ・まこと)師による彫刻です。

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本尊さまに向かって左側に浄土宗の開祖・お念仏の元祖、法然上人をお祀りしています。善導大師立像と同じく、大阪府門真市の仏師・安孫子誠(あびこ・まこと)師による彫刻です。


釈迦涅槃図

毎年2月24日の御忌会(ぎょきえ)で特別公開します。善福寺火災(昭和57年)の際に修繕に出していたので、消失せずに残りました。涅槃図の箱の裏書には以下の記述があります。亨保3年は1718年 第八代 徳川吉宗の頃と思われます。

「享保三戌戌年二月十五日 和州勾田村 善福寺什物 第十二世 實譽傳恵代」

涅槃図の箱の裏書


行基菩薩開山の石碑

「開山行基菩薩」と刻まれています。

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裏面には「頭光山」(ずこうざん)の文字が読み取れます。


山門(さんもん)

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山門(お寺の正面の門)は内山永久寺の塔頭(たっちゅう)寺院の門を移設したものでしたが、改築の際に新しい山門に変わりました(平成11年、竣工)。大きさは変わりありません。


鐘楼(しょうろう)

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いわゆる釣り鐘です。善福寺では毎日・午前11時30分に12回突きます。昔、農作業に出ている方がお昼休憩をとる目安にするためだったと考えられます。

大晦日は除夜の鐘を突きます。紅白歌合戦の後、23時50分頃からゆっくりと108回突きます。どなたでも突いていだだけますので、ご自由にお参りください。


十三仏の石碑

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古くからの「十三仏信仰」を基にした石碑や仏画は各地に多くあり、根強い人気があります。善福寺の十三仏石碑は摩耗が激しく、ハッキリと仏さまの姿を判別しにくいですが、歴史あるもののようです。場所をご案内しますので、興味ある方はお問い合わせください。

◆ 参考:天理市 勾田の十三仏板碑 – 石仏み~つけた
https://blog.goo.ne.jp/sekibutudaisuki/e/179022502c6f24bb4e7472f216d4e533


岡田為恭(おかだ・ためちか)の墓

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江戸末期の復古大和絵の第一人者・岡田為恭は、その技量を請われて知恩院所蔵の「勅修御伝」すなわち「法然上人行状絵図」(国宝・四十八巻)を正・副の二本、模写しています。四十八巻で500メートルを優に超える大部なもので、攘夷や討幕で揺れる時代の中での大事業でした。おそらく法然上人650年御忌と関係があるのではないかと推察されます。

為恭の画業は畿内を中心に比較的多く残されておりますが、三河の大樹寺には多くの襖絵が現存しています。為恭は早くから朝廷周辺の諸公卿と親しく、また一方で京都所司代・酒井忠義とも親交を結んでいました。為恭にとって酒井家が所蔵する「伴大納言絵巻」は「法然上人行状絵図」を模写するためにも常に見定める必要がありました。

しかし尊王討幕の時運は絵師として自由な行動を許さず、為恭は幕府に通じる間諜(かんちょう)であるとの風聞が立ち、遂には斬殺されるに至りました。

========== 天理市の案内板 ==========

岡田為恭(1823年~1864年)は江戸時代後期における大和絵(土佐派)の画家として名高い人物です。

文政6年(1823年)3月、画家・狩野永泰の三男として京都に生まれました。一時は「冷泉(れいぜい)」の姓を自称しますが、後に蔵人所岡田栄柄の養子となりました。父に従い狩野派の画を学びますが、やがて平安時代に隆盛した大和絵に関心を持ち、その復興を志して独自の創作をおこなった復古大和絵師として知られています。

為恭は早くから朝廷周辺の諸公卿と親しく交際していましたが、その一方で幕府方の京都所司代酒井忠義とも親交を結んでいました。酒井忠義が所蔵していた『伴大納言絵巻』に為恭が関心を抱いたためと言われています。しかし、当時は江戸幕府末期にさしかかり勤皇の機運が高まっていたことから、為恭は幕府に通ずる間諜(かんちょう)であるとの風聞が立ち、討幕派の浪士に狙われるようになりました。

為恭は文久元年(1861年)に京を出て、洛北西賀茂の神光院、比叡の常楽院、和歌山の粉河寺、奈良春日大社社家富田家、寺家の竹林家に逃れました。後に、堺の菜種問屋である大和屋徳次の元に身を寄せるものの浪士による追及が厳しく、妻の綾衣と共に内山永久寺(天理市杣之内町)に身を隠します。そして、元治元年(1864年)5月5日、現在の天理市丹波市町付近(一説には三昧田町)において、長州藩の浪士大楽源太郎らにより斬殺され、42歳の生涯を閉じました。

遺骸は当時の永原村の篤農家であった中村直三翁の仲介により善福寺に埋葬され、後に萩原巌雄氏の筆にかかる墓碑が建立されました。

岡田為恭を題材とした小説には以下のようなものがあります。

  • 村松梢風『綾衣絵巻』
  • 藤森成吉『悲恋の為恭』
  • 司馬遼太郎『冷泉斬り』

========== 以上 ==========


六地蔵の石碑

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山門の隣と本堂の隣の2カ所あります。六道輪廻して6つの世界を生まれ変わり死に変りしている私たちに、「もうこの世界に戻ってきてはいけませんよ」と6つの世界で見守ってくださっています。