和文のお経
漢文のお経を分かりやすく日本語に訳したお経が「和文のお経」です。
訳し方にいろいろあり、浄土宗が定める公式な和文はありませんが、善福寺では意味の伝わりやすさと読むリズムを考慮して住職が訳しました。訳文のベースは住職が師事した神田寺(東京)の故・友松円諦師のものを拝借しています。
善福寺ではすべての法要で「和文のお経」を称えます。お経本をお配りしますので、一緒に声に出してお称えください。
おつとめ(日常勤行式)
醒覚(せいかく)の偈
敬って大衆(よのひと)に白(もう)す。生死(いきしに)のこと大(おごそか)にして 無常(うつりかわり)は迅速(たちまち)のあいだなり。各々(おのおの)よろしく醒覚(こころ)すべし。慎んで放逸(おろそか)なることなかれ。
三法印(さんぼういん)
諸行無常(つくられたるもの うつりゆく)とは これ第一(はじめ)の法印(ことわり)なり。
諸法無我(このよにあるもの ひとりあらず)とは これ第二(つぎ)の法印(ことわり)なり。
涅槃寂静(おのれなきものに やすらいあり)とは これ第三(おわり)の法印(ことわり)なり。
香偈(こうげ)
願わくはわが身の浄(きよ)きこと 香炉(こうろ)の如くならん。願わくはわが心 智恵のともしびの如くならん。念々(つね)に戒(いましめ)と定(しずけさ)の香をたき 十方三世(じっぽうさんぜ)のみ佛に供養したてまつる。
三宝礼(さんぼうらい)
一心に敬って 十方世界に常住(かわら)ざる佛(さとれるもの)を礼(らい)したてまつる。佛(さとれるもの)は両足(ひととしひと)の尊さなり。まさに願わくは衆生(ひとびと)とともに 大道(さとりのみち)を体解(ふみし)めて 無上意(ふるいたつこころ)をおこさん。
一心に敬って 十方世界に常住(かわら)ざる法(ことわりのみち)を礼(らい)したてまつる。法(ことわりのみち)は離欲(おのれなき)の尊さなり。まさに願わくは衆生(ひとびと)とともに 深く経蔵(おしえのくら)に入りて 智恵海の如くならん。
一心に敬って 十方世界に常住(かわら)ざる僧(つどいのちから)を礼(らい)したてまつる。僧(つどいのちから)は衆中(いやさかえ)の尊さなり。まさに願わくは衆生(ひとびと)とともに 大衆(よのひと)を統理(すべととの)えて 一切(よろず)無碍(さわりなき)ものとならん。
四奉請(しぶじょう)
請いたてまつる十方(じっぽう)の如来 道場に入らせたまえ。請いたてまつる釈迦如来 道場に入らせたまえ。請いたてまつる阿弥陀如来 道場に入らせたまえ。請いたてまつる観音勢至(かんのんせいし)および諸々の大菩薩 道場に入らせたまえ。
懺悔(さんげ)偈
われ昔(さき)に造るところの諸々の悪しき業(わざ)は みな無始(さけがた)き貪(むさぼり)と瞋(いかり)と痴(おろかさ)とによるものなり。わが身と語(ことば)と意(こころ)よりおこるところ 一切(すべて)われ今ことごとく懺悔(さんげ)したてまつる。
十念
開経(かいきょう)偈
み佛の説きたまえる法(のり)は そのことわり甚だ深くして 百千万劫(よろずのとき)をふるとも遭い遇うこと難し。われ今耳に聞き心に受持(たも)つことを得たり。願わくは如来の真実義(みこころ)を解(さと)らんことを。
四誓(しせい)の偈
釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ) 阿難(あなん)に告げたまわく。その時法蔵比丘(ほうぞうびく) 四十八の願いを説きおわりて 更に頌(ことば)を説いてもうさく。
われ世にすぐれたる願いを建つ。必ず無上道(なしとげる)に至らん。もしこの願い満たされずんば 誓って正覚(ほとけのくらい)につかじ。われ無量劫(とわ)に大施主(たすけびと)となりて あまねく諸々の貧しさと苦しみを済(すく)わずんば 誓って正覚(ほとけのくらい)につかじ。われ佛の道を成しとげるに至りなば わが名声(ほまれ)十方に超(きこ)えん。もし聞こゆるところなくんば 誓って正覚(ほとけのくらい)につかじ。
われ欲を離れ 深き正念(しずけさ)と浄き智恵との梵行(おこない)を修めて すぐれたる無上(ほとけ)の道をつよく求め 諸天人(よのひと)の師(みちびきて)とならん。神力(ほとけのはたらき)はつよき光をさしのべ あまねく無際(いっさい)の国を照らし また三垢(まよい)の冥(やみ)をなくし 広く衆生(ひとびと)の厄難(わざわい)を済(すく)い 智恵の眼(まなこ)を開き 昏盲(おろかさ)の闇をなくし 諸々の悪道(くるしみ)を閉ざして 善趣門(たのしみ)にいたらしめん。われ佛となり 願いことごとく満たしえて その功徳の威曜(かがやき) 十方に朗(あき)らかならん。ために日も月も重暉(かがやき)をおさめ 天の光も隠れて現れることなし。
われ衆生(ひとびと)のために法蔵(おしえのくら)を開きて 広く功徳の宝を施し 常に大衆(よのひと)の中にありて 法(おしえ)を説いて獅子吼(やむことな)し。また一切(すべて)の佛を供養して あまたの功徳をそなえ 願いと智恵をことごとく満たして 三界(ひとのよ)の雄(あるじ)とならん。佛のすぐれたる智恵の如きは すべてにわたりて照らしたまわずということなし。願わくはわが功徳と智恵の力 この最勝尊(さとれるもの)と等しからん。この願いもしよく果たさば 大千(せかい)皆まさに感動すべし。虚空(みそら)の諸天人(もろびと)まさに珍妙(うるわし)の華を雨とふらすべし。
本誓(ほんぜい)の偈
阿弥陀佛の本誓願(おちかい)は 極楽往生の要門(たのみ)なり。われら等しく回向(ねんぶつ)して 速やかに無生身(とわのいのち)を証(みにう)けん。
弥陀回願(みだえがん)
大悲願王(ふかきなさけ)の阿弥陀佛および一切の三宝(さんぼう)の広大(かぎりな)き慈恩(めぐみ)に報いたてまつらん。
十念
元祖大師 法然上人 御遺訓(がんそだいし ほうねんしょうにん ごゆいくん)
一枚起請文(いちまいきしょうもん)
唐土(もろこし)わが朝(ちょう)に もろもろの智者達の沙汰(さた)し申さるる 観念(かんねん)の念にもあらず。また学問をして 念の心を悟りて申す念佛にもあらず。ただ往生極楽のためには 南無阿弥陀佛と申して 疑いなく往生するぞと思い取りて申すほかには別の仔細(しさい)候わず。
ただし三心(さんじん)・四修(ししゅ)と申すことの候うは みな決定(けつじょう)して南無阿弥陀佛にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。このほかに奥深きことを存ぜば 二尊のあわれみに外れ 本願にもれ候うべし。
念佛を信ぜん人は たとい一代の法をよくよく学すとも 一文不知の愚鈍(ぐどん)の身になして 尼入道の無智のともがらに同じうして 智者のふるまいをせずして ただ一向に念佛すべし。
証(しょう)のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。
浄土宗の安心(あんじん)起行(きぎょう) この一紙に至極せり。源空(げんくう)が所存(しょぞん) このほかに全く別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために所存を記しおわんぬ。
建暦(けんりゃく)二年正月二十三日
大師在御判(だいしざいごはん)
摂益(しょうやく)の文
阿弥陀佛の光明(こうみょう)は あまねく十方の世界を照らして 念佛の衆生(ひとびと)を摂(すく)い取りて捨てたまわず。
念佛一会
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛・・・
別回向(べつえこう)
◯◯家先祖代々総法界(そうほうかい)追善菩提(ついぜんぼだい)
総回向(そうえこう)の偈
願わくはこの功徳をもって 平等(ひと)しく一切に施し われらと世の人皆ともに 菩提心(ふるいたつこころ)をおこし 安楽国(たのしきくに)に往生(すすみ)ゆかん。
十念
総願(そうがん)の偈
衆生(いのちあるもの)は辺(かぎり)なけれども 誓って度(みちび)かんことを願う。煩悩(わずらいなやみ)は辺(やむこと)なけれども 誓って断ちきらんことを願う。法門(ことわりのかず)は尽(つきること)なけれども 誓って学ばんことを願う。菩提(さとりのみち)は無上(はるか)なれども 誓って証(なしと)げんことを願う。われらと世の人皆ひとしく利益(めぐみ)を受け ともに極楽(よろこび)に生き佛の道(ほとけのみち)を成しとげん。
三唱礼(さんしょうらい)
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
送佛(そうぶつ)の偈
請うらくはみ佛ら それぞれ本国(みくに)に還りたまえ。あまねく香(かおり)と華(はな)をまいて 心にみ佛を送りたてまつる。願わくはみ佛 慈心(あわれみ)もて遥かに護念(まもり)たまえ。われら勧(はげ)ましあいて皆ともに 佛の道(ほとけのみち)にいそしまん。